都市鑑賞者・内海慶一さんと行く町歩き〜岡山城の外堀編〜

都市鑑賞者・内海慶一さんと行く町歩き〜岡山城の外堀編〜
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歴史・文化 風景 体験・学び

有名な史跡名所を訪ねるだけが“観光”ではありません。ピクトさん(ピクトグラム)や装飾テント、水路など目の前の日常を注意深く観察する「都市鑑賞者」として約30年活動するライターの内海慶一さんに、岡山市の隠れた魅力を教えてもらう新企画。都市鑑賞という視点を手に入れれば、大人も子どもも、日々の暮らしから「面白いもの」を発見し、町の意外な側面を知るきっかけになるかもしれません。第一回のテーマは「岡山城外堀跡の暗渠(地下に設けられた水路)」。王道の観光ルートを回り尽くした人も、岡山市の“裏・観光”の沼に一緒にハマってみましょう。

掲載日:2025年11月19日

ライター:頼實

暗渠(あんきょ)が“見えた”!コンクリート敷の外堀跡

岡山城外堀の痕跡を鑑賞しながら歩くため、外堀の北端・岡山市北区弓之町の県道402号周辺からスタートしました。柳川筋を南下し、ゴールは南端・北区天瀬です。
早速、県道から伸びる、何やら意味深な斜めの道に出くわしました。

全体を見渡すため、いったん県道を番町側に渡ると、南北に伸びるコンクリート敷がありました。「外堀に流れこんでいた五番町川の暗渠です。五番町川は地図に描かれることが稀だったため、今では知っている人は少ないと思いますが、昭和30年頃までは開渠(蓋などで覆われていない水路)でした。西川から取水し、広瀬町、番町をクネクネと南下し外堀へと続いていました」と内海さん。この五番町川の暗渠は、県道をくぐり、先ほどの斜めの道に繋がっているといいます。

内海さんの町歩きのテーマは“見たことあるのに見えてなかった”です。説明を受けるうちに、ありし日の水路の姿がイメージとして脳内に立ち上がっていくから不思議です。
斜めの道の傍に古そうな遺物がありました。「花崗岩でできた部材ですね。残念ながらはっきりとした資料は見つかっていませんが、この辺りにあった橋に関係するものではないかと思います」。

「目の前のものを見て歩く『町を見る』という楽しみを掘り下げる中で、歴史や地理を遡って調べることもありますが、私は歴史が特別好きというわけではありません」と内海さん。過去の町の作りが現在の町の作りに今も影響を与え続けているという点が、今回の外堀跡巡りの面白いところだと話します。

高校生が登下校する斜めの道も元外堀!?

内海さんによると、小早川秀秋が1601年(慶長6年)に築いた外堀(トップ画像)は、明治以降、新柳川という名前の排水溝(水路)に転じ(上図参照)、その後、昭和に入り段階的に暗渠化(下図参照)していきました。外堀跡は現在の主要道路・柳川筋と重なる部分が多く、その変遷を辿ると、400年以上経った現在の町並みにも影響を与えているといいます。

もともと幅25〜32メートルもあった外堀は、水路を作る際に徐々に幅を縮小(明治8年時で約5メートル、昭和3年時には約2メートル)、その際、水が流れやすくなるように、クランク部を直角ではなく斜めにしたのでは、と内海さんはみています。

出典『池田家文庫絵図 備前岡山地理家宅一枚図』
『官許岡山県市中略図 明治8年』
『国土地理院電子国土web』

さらに南下すると、新たな斜めの道にぶつかりました。
後楽園通りから柳川筋へのショートカットで、近隣の人たちが利用している道のようです。「高校生たちが通学路として通っているのをよく見ますが、外堀の痕跡だと知っている生徒は果たしてどのくらいいるでしょうか」。

「斜めの道がある場所には自然と“鋭角ビル”が生まれます。このビルが鋭角である理由は江戸時代の外堀のせいだ、とは誰も思わないでしょうね」
俄然、斜めの道が気になりだします。
内海さんによると、岡山市内の斜めの道には、今回の外堀跡のほか、上水道の水道敷設のために作られた水道道(みち)、皇太子視察のために目的地まで最短距離で作られた視察道などがあるそう。斜めの道を地図で発見して、成り立ちを調べる楽しみができました。

外敵に睨みを利かせた寺社仏閣

古い地図を見ていると、番町交差点から大雲寺交差点に向かって(外堀に沿うように)、お寺が連なっているのがわかります。
富田町に以前あった妙應寺(北区岩井へ移転)から始まり、本行寺、薬師院、岡山寺、蓮昌寺、大雲寺と寺院が外堀の外側に配置されていて、岡山城を背に守りを固め、外敵に備えていました。「岡山空襲の後に移設された寺院もありますが、今も寺院が連なる様子は、当時の外堀の雰囲気が分かるポイントではないでしょうか」。

柳川筋から東に入る斜めの道に出逢いました。
「この斜めの道は、昭和13年まで路面電車(岡山電気軌道)が通っていました。ここも外堀を排水溝にした際に、クランクから斜めに変化した場所。その斜めの水路を暗渠化して路面電車を走らせたわけです」。
この斜めの道の外側には、日限地蔵や日限の縁日で知られる大雲寺があります。

消えた「旧町名」を探す

区画整理や住居表示の施行などで消えてしまった旧町名の痕跡を探す楽しさも教えてもらいました。
大雲寺の北側の斜めの道を入ると、かつてそこには細堀町(現在の表町三丁目)という町がありました。
「外堀と内堀をつないだ水路があり、それが町名の由来のようです。町名としては使われなくなりましたが、マンションの名前として残っています」。

外堀にあった城門跡「常盤町口門跡」の解説にも、かつてあった常盤町(現在の田町二丁目)の名前が。
天瀬の重吉稲荷大明神内には、かつてのこの辺りの町名「紺屋町」を後世に示す石碑も作られています。
「電柱や町内会の消火器ボックスなどに旧町名が残っていることがあるのでチェックしてみてください。旧町名の痕跡を集めるのも面白いですよ」

不思議なクランク道の秘密とは!?

天瀬に入りさらに南下します。
この辺りで、暗渠は二日市方面へ南に続く排水溝(新柳川の続き)と、外堀跡(東西)とに分かれます。
外堀跡を東に向かって歩くと、不思議なクランクが現れます(公衆トイレがある付近)。城門跡の「紺屋町口門」です。
「枡形(ますがた)という、侵入者をまっすぐに進ませないようにするために設けられた場所の名残です」と内海さん。

嵩上げした家屋の階段が、いかにも暗渠っぽい。その他、橋跡やマンホールなども暗渠探索の手がかりになるそう。
今回は外堀跡の暗渠を歩いてみて、すでに外堀はないのに、外堀らしさを感じられる斜めの道やクランク道に出逢えて、感動すら覚えました。何気なく普段通っている道も、面白がって見てみると、見たことのない景色が浮かび上がってきますよ。

参照『絵図で歩く岡山城下町』

内海さんのマニアックなブログはこちらから見ることができます。ニッチな町歩きの世界に踏み込んでみてください。

岡山市公式観光情報 OKAYAMA KANKO.net