「山羽虎夫(やまばとらお)」はどんな人?
1904(明治37)年5月7日、山羽虎夫氏によって日本初の国産自動車となる蒸気自動車の試運転が行なわれました。この自動車を製造したのも、もちろん山羽虎夫氏です。
日本に初めて自動車が輸入されたのは1898年といわれており、その僅か6年後には山羽虎夫氏によって国産自動車の試運転が行なわれています。
自動車時代のさきがけともいえる人物が岡山県出身だったという事実を周知することで温故知新を図る「山羽虎夫 顕彰プロジェクト」が発足し、様々なイベントを開催しています。
今もっとも注目したい岡山県の偉人です。
山羽虎夫の生い立ちとは?
山羽虎夫氏は1874(明治7)年12月20日、岡山市生まれ。
小学校を卒業すると、海軍の造船所に機械見習として入所し、横須賀や神戸の造船所で水雷(魚雷など)技術や電気技術を学びます。
さらに、最新の電気技術を身につけるため東京の沖電気、通信省電気試験所にも入所し、機械知識の専門性を深めていったそうです。
1894年、山羽氏は徴兵のため岡山に帰郷するも兵役は免れ、その後、結婚をして地元の名家である山羽家に夫帰養子として入り、岡山紡績所の電気技師となりました。
翌年1895年には独立を叶え、岡山市内の天瀬可直町で「山羽電機工場」を設立。
電話機・電気機械をはじめとし、ミシンや井戸用ポンプの修理、自転車の改造修理までを請け負い、新しい技術への探求心と好奇心にあふれた工場経営をおこなったそうです。
世界の自動車事情と山羽式蒸気自動車の製作
1886年、ドイツのダイムラーとベンツの二人が世界初のガソリン自動車を製作。
1898年には初めて自動車が日本に輸入されました。
1900年時点でのアメリカの自動車登録台数は8000台であり、この当時は欧米でさえ自動車は「お金持ちの嗜好品」という時代。
岡山の資産家の森房三氏、楠健太郎氏らは岡山市と高梁市の50kmを結ぶ乗合自動車を計画し、蒸気自動車の購入を検討するも、高額であることを理由に購入を断念。
そこで、国産自動車を作れないかと、1903年に大阪府の鉄工所に自動車の製作を依頼しましたが、計画通りに自動車制作は進展せず、しびれを切らした森氏らが同年に地元岡山の技術者である山羽虎夫氏に製造を依頼したのです。
山羽式蒸気自動車の完成と試運転
「山羽式乗合蒸気自動車」の仕様は、大きさ全長約4.5m、全幅約1.3m。1本のハンドル、駆動はチェーン・ドライブ式、タイヤはソリッド・タイヤ、定員10人乗り」で、ガソリンバーナーにより沸かした蒸気を動力源としています。
中でも、エンジンの製作は困難を極めたそうです。農業用の簡易型蒸気機関に関する書籍などから情報や知識を集めて製作に取り組んだと思われるが、水管や歯車などの工作・取付は自己流の作業方法で工夫をこらしました。
もう一つの苦労はタイヤ。当時は人力車、自転車用タイヤはあったものの、国内に自動車タイヤメーカーはまだなく入手が難しい状況でした。
その中で、タイヤは大阪府のゴム工場にソリッド・タイヤを依頼しました。
依頼から約半年という短期間で1904(明治37)年5月に山羽式蒸気自動車は完成。
山羽式蒸気自動車が短期間で完成できたのは、蒸気機関エンジンなどのパーツを山羽氏が製作し、シャフトなど既に作製されていた一部の部品を使用できたためだと思われます。
1904(明治37)年5月7日、山羽式蒸気自動車の試運転が行なわれました。
山羽電機工場から発車。試運転で一番の苦労はタイヤであり、タイヤが伸びて波打ち、車輪から外れかかったり、エンジンも当時の技術で作られたボイラーでは十分な蒸気を連続的に発生させることが難しかったりと、自動車が動かない状況もあったようです。
実用化には至らなかったとはいえ、国産第一号の蒸気自動車として、山羽式蒸気自動車は10キロの道のりを走り切ったといいます。
胸像移転の除幕式
山羽式蒸気自動車の試運転から50年後の1954年には、岡山城の鳥城公園堀端に胸像と記念碑が建立されたものの、目に留まりにくい場所だったそうです。
そこで「山羽虎夫 顕彰プロジェクト」によって人通りの多い京橋へ胸像移転が計画されました。
「岡山由来・岡山発祥のものにフォーカスしていくことが、岡山らしさ追求する活動の成長点となる」というコンセプトで当プロジェクトにおける両イベントが実現したそうです。
除幕式には来賓として、岡山市長 大森雅夫氏、岡山市議会議員 和氣健氏、山羽虎夫のひ孫にあたる山羽真二氏、齋藤真氏をはじめ、プロジェクト発起人として山陽放送相談役 原憲一氏、丸田産業代表取締役会長 伊原木一衛氏、表町商店街連盟会長 長谷川誠氏も参列され、華々しく執り行われました。
同会場では、岡山商科大学付属高等学校自動車科制作の「山羽式蒸気自動車」レプリカもお披露目され、「当時の技術がどれだけ進んでいたのか」が一目で分かる展示として印象的でした。
京橋朝市「山羽虎夫とはたらく乗り物たち」
5月7日の京橋朝市「山羽虎夫とはたらく乗り物たち」では、パトカー、高所作業車、最新式のEVモビリティなどを集め、はたらく乗り物の展示と試乗会が開催されました。
当日は雨天により来場者数は想定の10分の1程度だったとのことですが、特に高所作業車には子どもから大人まで多くの方が試乗していました。
高所作業車のバケット部分は最高で約15mにも達し、晴れていれば青空と旭川とお城を一度に楽しめたのではないかと思います。
生活を支える沢山の乗り物たちの源流となった山羽虎夫の「山羽式蒸気自動車」。
2022年には、日本独自の自動車技術開発に貢献したとして、自動車開発者の構成を称える最も名誉な殿堂、「日本自動車殿堂」に名を連ねました。
自動車大国日本の未来を切り拓いた山羽虎夫は、自動車殿堂者として誰よりもふさわしい存在。
何より、山羽虎夫氏のもつ「新しい技術への好奇心」と、「努力を尽くした創意工夫」生み出した功績なのだと考えます。